靖国神社・合祀とは?

 2001年8月、小泉首相は就任以来固執した靖国神社への公式参拝を強行した。なぜ靖国参拝にこだわったのか?  小泉は首相就任後の記者会見で「万が一のとき、命を捨てる覚悟で訓練をしている集団に敬意をもって接する法整備、環境をつくるのが政治の責務だ。」と語った。またかつての中曽根首相も「国のために倒れた人に対して、国家が感謝を捧げる場所がなくして、誰が国のために命を捧げるか」と語っている。国民を戦争に動員していくための「装置」が靖国なのだ。

 靖国神社は、国家の宗教施設であり、軍事施設であり、国民統合のための「精神的支柱」だった。戦争の犠牲者である国民が当然抱く「悲しみ」「怒り」などの精神的自由を拘束し、教育の力で、逆に「無駄死に」を大義のための「栄光・名誉」だと転換させ、次の戦死者を生んでいく「英霊サイクル」のメインエンジンである。

靖国神社のなりたち

 
   

 現在の靖国神社は、東京都知事認証の単立宗教法人だ。靖国神社は、規則第3条で「神道の祭祀」「神徳を広め」「教化育成」という宗教活動を目的としている。靖国神社は宗教的施設であっても宗教団体ではないとの主張も一部にあるが規則にはあてはまらない。

 靖国神社に祀られる(「合祀」という)神々は、「霊璽簿」に名前を記され、本殿奥の奉安殿に納められている。祀られているのは、明治維新以後の戦争戦没者二百四十万人余りであるが、全ての戦没者ではない。靖国神社の神となるための条件は、天皇のために戦死することであった。「名誉の戦死」には、一応の基準が定められていたが最終的には天皇の意志で決定された。一宗教法人となった現在は、形式的には神社自身が決定権を持っている。

 明治憲法(大日本帝国憲法)では、主権は天皇にあった。「大日本帝国ハ万世一系天皇之ヲ統治ス」とあり、天皇は、国の元首であり、統治権、立法権、陸海軍の統帥権から宣戦布告の権限まで握っていた。そして、明治憲法では政教一致の体制がしかれ、天皇に宗教的権威を持たせて天皇を中心とした国民統合を図った。明治政権は、そのために日本に古くからあった宗教の一つ自然崇拝的な神社神道を利用し全く新しい宗教をつくった。そして、全国各地の神社を再編成し、天皇の祖先神(天照大神)をまつる伊勢神宮を頂点としたピラミッド型の神社の序列がつくられた。日本は「神の国」であり、その祖先神を祭る天皇は「現人神」であるとするのが国家神道だ。国家神道は事実上「国家宗教」とされ、他の宗教の上に位置づけられた。そして、「神社崇敬は国民の義務である」とされ「これを誹謗するようなことは、秩序を破り、国民の義務に反する」とされた。仏教徒も、キリスト教徒も、無宗教者も神社参拝を強制された。朝鮮、中国など日本が侵略した先々にも多くの神社が建てられ、それぞれの民族にも参拝を強要した。こうして国家神道は、国民の心を統合し侵略戦争へと駆り立てていった。靖国神社は、国家神道の中でも特別の施設だった。

 明治2年(1969年)「東京招魂社」として九段坂上に建てられ、明治12年(1879年)「靖国神社」と改め、別格官幣社とされた。日本では古くから戦場での死者を敵も味方も弔うという習慣がある。特に、神道では敗戦側の亡霊を鎮魂するという考えがあった。しかし、靖国神社は、祭祀の対象を、勝利者である天皇の軍隊の戦没者に限った。ここから鎮魂は、慰霊となり、さらに、勲功顕彰という性格が強調されて打ち出されていった。

 また、他の神社は内務省の管轄だが、靖国神社は陸軍省と海軍省が管轄してきた。誰を祀るかは、軍が決め天皇の裁可を受けた後で合祀が行われた。また、合祀基準外の者には「特祀」という形で天皇の恩恵によることが強調された。こうして、国民は戦死して「靖国の英霊」となることが最高の美徳とされ「忠君愛国」の精神として子ども達にも教えられた(教育勅語)のである。

 また靖国神社境内には遊就館・国防館が開設され、祭神となった戦死者の「勇姿」や遺書戦利品の兵器、兵器の発達を示す展示など軍事的啓蒙施設としての役割を果たした。

 「英霊たちの偉業」を無駄にしないため、として次の戦争が準備され、「靖国の神々」はさらに増えていき、祭礼も盛大になった。靖国神社やその地方分祀である県単位の護国神社、さらに村単位の忠魂碑への参拝も、強制された。こうして国のすみずみまで「英霊サイクル」という戦争教育システムを張り巡らせたのである。

 
 その靖国神社に、2万1181人もの朝鮮半島出身者が合祀されている。それは遺族に一言の断りもなく「戦後も」行われた。生死確認の通知も補償もなく、しかし靖国には一方的に合祀されているのである。軍人軍属ゆえに侵略の加担者とみなされ、苦痛を味わった遺族は、死んでなお愛する人の魂を侵略者に奪われ、苦痛を強いられているのである。
 

GUNGUN原告の陳述書

父の死を知る1991年まで、ずっと私たちは傷ついていました……。父の名誉も私の名誉も汚されて耐えがたい屈辱です!

原告 イ・ヒジャ(李熙子)さん

 
  合祀絶祀を要求する李熙子さん
(2001年8月・靖国神社)

 本人は1943年1月3目、京畿道江華郡ソンヘ面ソルジョン里519番地で、父イ・サヒョンと母ハン・オクファの間に生まれました。その当時、祖父、祖母、父、母、おじ3人、おば3人、そして本人がともに暮らしており、農業を営んでおりました。

 その当時は太平洋戦争が勃発して戦争が盛んなときだったので、ある年齢になると徴用を避けることはできないとのことでした。家族から1人は必ず徴用されなくてはならず、父が令状を受けることになりました。父も徴用をのがれようと、昼間は家にいられず、隠れまわって戦争が終わるのをひたすら待っていましたが、これ以上避けることができなくなり、姿を隠しているのも窮屈だから早く徴用から帰ってきて楽な気持ちで家庭を引っ張っていかねばと徴用されていったのでした。

 父は1944年に徴用されましたが、その当時は北海道に行くと聞きました。父は徴用される日に、母と本人を母方の祖母と一緒に暮らすよう母の実家に連れていき、出発しました。母方の祖母は髪をとかしてくれながら、父は日本に徴用されたと言い、父は闊達な性格で情が深く、壮健な体に力もあり、祖母をよく手伝ってくれたなど、父に関するすべてのことをいつも語ってくれました。

 父は母の実家に手紙を送り、中国の戦地にいるが戦争がいつ終わるかわからない、終わったら帰るという、1944年の冬に来た手紙が最後になったとのことです。

 解放後、父は戻らず、母方の祖母は遠い野原を見つめて今か今かと父の帰りを待ちました。祖母と母は時が流れても父が帰ってこないので、それぞれ父の消息を聞くために、評判のムーダン(巫女)を訪ねてまわりました。周りは父が帰らないのは死んだからだと言っていました。父の死亡を目撃したということをだれからも聞いたことがありませんでしたし、死亡通知もなかったので、父の死を信じることができませんでした。

 父は掃ってきませんでしたが、そのまま母の実家で過ごし、周りの親戚や近所の人たちは母に再婚をすすめました。ある冬の日、近所のおばさんたちが集まって部屋の中に座り、本人を指差して「娘1人を当てにせずに再婚しなさい」と言い、幼心にあまりにもくやしい気持ちになりました。母は父の実家で本人と2人きりで暮らせる家でも用意してくれたら再婚せずに生きていくと言いましたが、父の実家では知らぬふりをしたのでとても傷ついて、帰らぬ父を恨み、本人が10歳になる年に再婚しました。

 母は本人を連れて再婚すれば生活や教育の間題が解決するだろうと考えたのでした。母は以前とは異なり田畑で仕事をするばかりで、新しい父ともしばしば言い争っていました。完全に変わった生活環境は幼い本人に大きな衝撃を与え、母方の祖母がいつも話してくれた父と新しい父が比較されていっそうやるせない心情でした。中学校に進学したかったのですが、小学校の卒業生のうち中学校に上がる友達が一人もなく、母は本人を進学させたかったのですが、新しい父がそれには関心ももたなかったので、それはできなかったとのことです。

 母は再婚して心が病み、いつも神経性胃炎に苦しみ、確認されていない父の死亡申告をしたことでいつも罪悪感にさいなまされながら暮らしてき、涙の歳月を過ごしました。

 70年代に釜山に遺骨があるというのでおじが参席しましたが、母と本人がいるという考えから遺骨を持ちかえらなかったといいます。江華郡庁の職員が家に父の遺骨を持ってきてくれました。日本が私たちの家庭を完全に根元から揺り動かしておき、私たち母娘はあまりにも長い苦痛の歳月を送らざるをえませんでした。

 89年度に太平洋戦争犠牲者遺族会という団体を知り、子として父の名誉回復と正確な記録を探すべく、懸命に活動をしました。活動しながら知り会いになった日本人に父に関する記録を探してくれるようお願いし、1996年5月に確かな記録を日本の防衛庁から受け取りました。記録によると、1944年2月19目に家を発った父は陸軍軍属としてi944年3月5日にヨンサン駅を出発して中国に派遣され、特設建築勤務101中隊に勤務して同年6月11目広西省第180兵站病院で死亡したと記録されていました。未支給の給与金として1480円が供託されていました。さらに驚くべき事実は、留守名簿を見ると、父の名簿が日本の靖国神杜に合祀されているというのです。

 父親が靖国神祉に合祀されているということは、いまだに父親の霊魂が植民地支配を受けていることだと思います。靖国合祀以前に被害者の遺族にそのような事実を知らせなかったことについてはとうてい納得できません。これに対して日木政府が訴訟になる前に周辺国侵賂について反省するというのなら、遺族の要請を受け入れて合祀を撤回するべきだということは当然であるにもかわらず、それをしないでいるため訴訟を提起することになったのです。

 昨年8月15目に合祀取り下げを要請するために靖国神杜を訪ねました。しかし日本の右翼たちが車で人を動員して阻止する光景を見て、父の霊魂が靖国神祉に祭られていることに子としてなによりも胸が痛みました。

 靖国神仕を訪ねて合祀取り下げの要請書を渡しましたが、靖国側からは「お父さんはきちんと祭られており、つねに追慕している。すべての人々が合祀を誇りに思っている」という回答がありました。私は去る8月15日、靖国神杜の前での光景は少しも神聖とは思えず、合祀もまったく誇りに思っていません。

 日本の小泉首相は昨年8月に靖国神杜を公式参拝し、これに反発して違憲訴訟を提訴した韓国の被害者と日本の良心勢力を「おかしな人たち」と罵倒しました。日本の2重の姿をそのまま見ることができた事件でした。

 良心的な日本人が韓国人被害者を助けるために努力する姿を見ながら、温かい日本人だと感じつつも日本を憎むしかない現実がまた一つの苦しみとして迫ってきました。いつかは許さなくてはならないと思っていますが、いまの日本政府の態度を見るとまだその時期ではないようです。

 戦後補償運動をしながら、生存者の方にお会いするたびに、自分の両親にできなかった子としての役目をはたしているのだという気持ちをもつようになりました。これから年をとって両親のもとに行ったとしても、若いときに日本によって命をおとさざるをえなかった父のために子として潔く、堂々と闘った子になれるよう裁判長が正しい判決を下してくださることをお願い申し上げます。
 この地球上に再びこのような悲しい出来事があってはならないと切実に感じつつ、本法廷で強く訴えるしだいです。

生存者なのに靖国神社に合祀されている!

原告 キム・チゴン(金智坤)さん

 私は1936年7月1日平壌陸軍航空支庁に軍属として配置されました。その後、38年8月10日にハンフン陸軍航空分庁、40年8月15日に満州駐屯野戦航空補給廠、44年8月5日にフィリピン派遣第4航空司令部に移り、フィリピン作戦に参加しました。45年1月1日、米軍上陸で、抵抗不能になり数十回の死線を越えて山岳地帯に後退し、草の根、木の皮を食べながらやっと命をつなぎとめました。45年9月15日、米軍冠禮捕虜収容所に収容されました。45年12月1日、日本に送還され、帰国しました。年金、その他の貯金ならびに諸手当金の支払いを求めます。

●その後の調査で、本人は生存しているのに靖国に合祀されていることが判明。「軍国主義の象徴の靖国に祀られるなんて迷惑この上ない」と語る。