在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.90 (2018.8.4発行)

植民地歴史博物館建設基金寄贈式で
(6月9日ソウル)

「戦没者遺骨を家族の元へ」は世界基準で現在の課題!
国はDNA鑑定の遅延対策「人・施設・予算」の配置を急げ!

 6月12日にシンガポールで行われた米朝会談では、アジア太平洋地域の平和と繁栄に向けた画期的な合意がされました。中でも注目点は、合意4点の最後「朝鮮民主主義人民共和国と米合衆国は、戦争捕虜および行方不明者の遺骨発掘を進め、すでに発掘確認された遺骨を即時送還することを確約した」(労働新聞)です。「戦没者遺骨を家族の元へ」の要求は世界基準、「現在進行形」の課題なのです。7月27日には実際に遺骨返還に向けた行動が起こされています。今後米軍(DPAA)で家族の元へ返す鑑定がされるでしょう。
 今年も私たちは、6・23沖縄戦慰霊の日に合わせて摩文仁でDNA鑑定集団申請の受付を行い、前日名護集会と合わせて約60人分の申請を受け付けました。6月、NHK九州の特集番組「帰らぬ遺骨、何が必要か」では、DNA鑑定現場での「遺骨渋滞」と呼ぶべき鑑定遅延の実態が放映されました。最後の望みを託して申請した遺族の思いの一方で、大学等が鑑定作業を厚労省からボランティアで受けており、少ない予算と人で限界が生じている実態が明らかにされました。「国の責務」と宣言した遺骨収集推進法に基づく「人・施設・予算」の配置が必要です。今後も国内外の研究者と連携しながら遺族の思いに応えたいと思います。引き続きご支援ください。

厚労副大臣に沖縄戦県民遺族のDNA鑑定申請名簿を提出(上田)

 7月17日、沖縄戦遺骨収集ボランティア・ガマフヤーの具志堅隆松代表とともに厚労省副大臣を訪問しました。目的は第3次DNA鑑定集団申請名簿の提出。昨年7月の135名、12月の35名に続き3回目。7名の海外戦没者を含む84名分の名簿を提出しました。
 今回、厚労副大臣はガマフヤーの申し入れに、84体の遺骨(歯のある遺骨について、その歯と手足を鑑定)と、326人(今回提出以前)の遺族の鑑定照合結果を年末に終わらせ結果を通知すると公表しました。6月にNHKが、「4月段階で遺族の鑑定が全くできておらず、遺骨鑑定の渋滞が起きている」と現状を報道しました。鑑定委員の科学者たちも「大学の仕事があり専属できない実態や予算の少なさ」を訴えるなど厚労省の取り組み姿勢を批判。年間66体の遺骨鑑定しかできていない現状も明らかになり、「このスピードでは遺族がいなくなってしまう」という危機感が、私たちの国会ロビー活動を通じて国会議員にも広がりました。沖縄での継続した申請受付や、マスコミとの連携、国会活動を通じて実現した成果です。

はじめて海外戦没者の名簿を受理

 今回名簿提出の84名は、3月に行った「第2回沖縄戦没者遺族DNA鑑定集団申請説明会」以降の名簿です。この3月説明会で初めて沖縄戦で戦没した方にとどまらず沖縄県外で戦没した海外戦没者について呼びかけを行いました。沖縄では、国策によりフィリピンをはじめ海外地域に労働者として集団移住した人が多く、海外でも多くの方が戦闘に巻き込まれて亡くなっています。DNA鑑定の呼びかけが県内に浸透する中、自分たちも参加できないかという声が届くようになりました。厚労省は沖縄戦でのDNA鑑定を踏まえて、海外戦没者を対象にするかどうか検討するとしており、現状では海外戦没者の鑑定表明をしておりません。しかし沖縄での取り組みから海外戦没者へという方向は当然の流れであり、遺族が高齢化する中で一刻の猶予もない緊急課題です。7名でも海外戦没者の遺族の名簿を厚労省が受け取ったこと、その声を厚労省に認めさせたことに大きな意味があります。

遺骨鑑定「渋滞」の解消が不可欠

 6月22日沖縄県名護市で開いた「戦没者遺骨を家族の元へ沖縄名護集会」でも、翌日6・23摩文仁でのDNA鑑定集団申請宣伝行動でも、ご遺族からの思いを聞き、申請を受け付けました。県民遺族のみならず、摩文仁を訪れた本土遺族の方々も申請されました。あやふやな死亡地記録に固執する厚労省の枠に入っていない人たちです。厚労省は「こんなにたくさん申請があるとは思っていなかった」とNHKインタビューに答えています。しかし沖縄では申請の勢いは止まっていません。「何人沖縄戦で死んだと思っているのか」これが摩文仁で遺族から聞いた厚労省への怒りの声でした。
 私たちが日本で取り組まなければいけない大きな問題は、遺骨鑑定渋滞問題の解消です。11大学への遺骨鑑定の分散発注の弊害を解消し、専属の科学者を置き、継続的・専門的・総合的に鑑定する体制を日本に作り出さなければなりません。遺骨を家族に返すまでを国家の責任とする、戦没者遺骨収集推進法に命を吹き込みましょう。政党を超え、考えの違いを超え、戦争の被害者遺族の元に遺骨を返すために何が必要か、遺族・科学者・国会議員・支援者の力を集め、厚労省に解決案を突き付けていきましょう。

日韓政府への働きかけを強めよう

 一方、韓国での取り組みはどうなっているのかを報告します。韓国安全行政部と日本厚労省の交流は始まっています。韓国では160名の沖縄戦戦没者遺族のDNAデータ抽出をすでに実施し、厚労省に鑑定照合を求めています。残念ながら厚労省は、「まだ韓国政府から具体的提案はない」などと言い、外交ルート(韓国外交通商部)からの正式提案が無いからと逃げています。南北・米朝・米韓交渉が続く中、厚労省単独で判断できない政治状況に入ってしまっているとはいえ、日本人の遺族の鑑定も十分にできず、遺骨の鑑定渋滞を起こし、遺族に遺骨を返す仕事ができていないことが大きな問題です。
 日本と北朝鮮が交渉せざるを得ない国際情勢になる中、遺骨問題は韓国・日本間の「解決できる」課題として浮上してくることは間違いありません。「韓国から具体的提案があれば検討に応じる」という、公式見解を日本政府は変えていません。私たちは、東アジアの平和構築・信頼関係の拡大が進むならば、展望は一挙に開けると予想しています。日・韓・朝において遺骨問題が平和構築のシンボルになるかも知れません。我々もあらゆるチャンネルを通じて韓国政府に要請を強めていきます。

今年も沖縄で6・23慰霊の日にあわせ集団申請受付(木村)

22日は名護で説明会を開催 「少しでも情報を」切実な遺族の声

 6月22日、沖縄名護でガマフヤー(具志堅隆松さん代表)主催で「戦没者遺族DNA鑑定集団申請説明会」を開催した。説明会は昨年6月に中部の浦添市で、今年3月に南部の南風原町で行ったのに続き3度目。北部では初めての開催。
 国が民間人の遺骨も含めてDNA検査をすると認めてからほぼ1年が経った。厚労省へ直接申請した人も合わせると、約300人が申請している。しかし遺族の高齢化に対し、鑑定作業は進んでいない。この時期は、沖縄各地で追悼式がある。地域の追悼式が同じ時間帯にあり、参加が困難な中、集会に16名の遺族が参加された。
 参加された普天間いと子さんは、「父は防衛隊として動員された。どこで亡くなったかも分からない。石を拾ってきて墓に埋めてある。一万分の一でも見つかったらいいと思って参加した」と。名護市の女性は「防衛隊だった祖父と、スパイと疑われ日本軍に殺害された曽祖父の遺骨を探している。殺害されたという場所で遺骨を探したい」と。大城まさ子さんは「父は防衛隊に取られ戦死。中学の頃戦死公報が来たが、自分の中で受け入れられなかった。祖母は真嘉比で亡くなったと言っていたが、公報には別の場所が書かれていた。具志堅さんが真嘉比で遺骨収集されていると聞き、今日来た」と、次々に証言や質問が続いた。語りたい、少しの情報でも得たい、という遺族の方々の思いが会場を包んだ。
 具志堅さんは、「声を上げなければ、国がやったことを認めることになる。戦後処理というだけでなく、再び戦争に巻き込まれないためにも大切だ。また、遺族にとってDNA申請は、亡くなった方を決して放ったらかしにしていないというメッセージ、子どもとしての務めを果たすことになる」と、申請参加を呼びかけた。集会後も具志堅さんに集会の中では話し足りなかったことで質問をされる遺族の方々の姿があった。

名護での説明会 説明する具志堅さん 遺族から熱心な質問が

23日は梅雨明けの日差しを浴び摩文仁で申請受付 

 23日は、摩文仁の平和祈念公園と魂魄の塔周辺で、チラシ3000枚を配り、集団申請を呼びかけた。
 開始前に沖縄恨之碑の会の沖本富貴子さんと一緒にGUNGUNの沖縄戦遺族、権水清(クォン・スチョン)さんの父、云善(ウンソン)さんの名が刻まれた平和の礎に向かい、花とごはんを供えた。礎にはそれぞれ家族の方がお参りに来られている。誰も来られないだろうからと、沖本さんが供物を用意された。近づくと数人の人影が。話を聞くと琉球大学の学生で、先輩の一人が後輩数人連れと、九州からの女性(映画「あんにょん・サヨナラ」でヒジャさんを知ってますという)2人だった。ここに権さんがおられたら、どんなに喜ばれたかと思った。権さんは待ち望んだ刻名をまだ見ていない。
 その後、梅雨が明けた沖縄の突き刺さるような日差しの下、集団申請の呼びかけを行った。各地からピストン運行のバスが到着すると、降車する人にチラシを配布。今年はその場で申請書が書けるよう、机を二つ用意した。遺族36人の申請があった。チラシを配ると お一人お一人が亡くなった家族の話を聞かせてくださる。「船が沈んだから、探すことはできない」という方も。沖縄ではマスコミが具志堅さんの活動を伝えている。23日の朝もNHKで具志堅さんが登場するドキュメンタリーが放映されていた。チラシを受け取りながら、「具志堅さん知ってるよ」「頑張ってね」と声がかかる。「本当は国がやるべき事ですよね」と応えながら、炎天下申請を呼びかけた。

まず平和の礎に 申請受付
権水清さんのお父さんにお供え 行列ができることも

植民地歴史博物館がオープン間近!
  建設基金寄贈式に参加
(古川)

 6月8日から3日間、植民地歴史博物館がオープン間近ということで、建設基金寄贈式に招かれた。ソウル駅から地下鉄4号線で一駅の淑大前駅10番出口を出るとすぐのホテルに集合。民族問題研究所や太平洋戦争被害者補償推進協議会が入る博物館まで徒歩で7〜8分。まずスタッフの野木さんと姜ドンミンさんから1階から順に説明を受けながら昇った。1階の玄関にはオープンに向けて多く募金してくれた方の名前を彫るそうだ。玄関を入った広い、100人くらいが集会できそうなホールにはキッチンも備わり、自由で開放的な空間になっている。いろんな催しもできるし、李煕子(イ・ヒジャ)さんが言っていたキムチ作り教室もできそうだ。2階は植民地博物館の常設展示スペース。3階は資料書庫。4階は民族問題研究所の事務スペース。一人ひとり区画されている中で研究や事務に集中できるようになっている。そして5階は20人くらいの会議室と、推進協議会の事務スペースがある。ヒジャさんの机の後ろの窓からは目の前に南山(ナムサン)タワーが見える。6階の屋上にはその南山を背景に気持ちのよい広い空間があった。
 見学後、会議室で今回のプログラムの説明があった。野木さんから立派な資料とともに、ヒジャさんからのプレゼントが一人ひとりに手渡された。おしゃれな韓国の民芸デザインをしつらえた手提げ袋だ。いつも細かな心配りに感謝。資料には3日間で訪問するフィールドワーク(FW)の地図と研究者による解説が載っている。

博物館の入る立派な建物 説明する姜さんと野木さん 事務所の窓から南山タワー

植民地支配の歴史遺産が残る南山・龍山エリアの中心に位置
 
 
  金九の墓
 位置的には博物館の東側に観光地の南山エリア。その南側に日本軍基地(戦後は米軍)があった龍山(ヨンサン)エリア。博物館の西側にあるのが孝昌(ヒョンチャン)エリアだ。どれも日本が統治し、朝鮮の施政権を奪う過程と関わりの深いエリアである。国の中心であるソウル駅に近いにも関わらず、私自身これまでも日本との関わりを実感した経験がほとんどない。それだけに博物館の位置的意義を感じる。
 博物館を出てFW開始。まずは博物館から西方向へ徒歩5分にある孝昌公園へ。ここにはもともと朝鮮22代王たちの墓があったところ。龍山に日本軍が入り、ここを公園に作り変えてしまった。光復(独立)後、金九(クム・ク)がここに整備したのが、植民地支配中に樹立した「韓国臨時政府」の主人公、「李奉昌」「尹奉吉」「白貞基」の墓で、まだ遺骨は入っていないが、安重根の墓も用意されている。墓を下りて回り込んだ場所に建っているのが金九博物館だ。すでに入館時間を過ぎていたが、交渉の末、退館時間厳守を約束し入館させていただいた。韓国臨時政府樹立の背景の充実した展示が無料!今度時間をとって見にこようと思った。2階の大きな窓からは李承晩政権に暗殺された金九の墓が目の前に見える構造が印象的だった。その後は夕食タイム。おいしいプルコギを食べ、その後2次会でチョッパル(豚足)の店へ。これが実においしかった。

 2日目はホテルから地下鉄で忠武路駅下車。駅からすぐ南の観光地、南山韓屋村へ。ここ南山一体は、1905年に乙巳(ウルサ)条約に基づいて日本が統監府を置いたエリアだ。忠武路から昌徳宮に至る一直線に延びた道路は、昌徳宮にいる朝鮮の国王が統監府に拝謁するために作った道路だという。韓屋村の上に抜けた先にあるトンネルの奥には軍事独裁政権下、KCIAの建物があった。そこで行われた北のスパイと決めつけた政治犯の拷問の方法は、植民地支配下で日本の警察が行った方法と同じだそうだ。日本は戦後も負の遺産を残し続けてきたのだ。南山の北から西へ回り込むと、小さな公園が。そこが統監府のあった場所だ。ここで私は思い出した。2010年日韓併合100年の年に大雨の中、統監府跡を記録する碑の除幕式に参列したことを。統監府の玄関にあった銅像の礎石をその後発見してモニュメントにしている。韓国では解放後、植民地支配下での記憶を「国恥」と呼び、記録を消してきた歴史がある。民主化と並行して、歴史を正しく検証し、記憶することの必要性が認識されてきた。今回の植民地歴史博物館もその延長線上にある。その先頭に立って切り開いてきたのが、民族問題研究所である。古い統監府の写真に写っている大きなイチョウの木や取り付け道路は現在も同じ場所にある。その後、日本赤十字社の跡や、小学校の校庭の片隅に残る「乃木神社」の手水鉢を見学。山菜ピビンパの昼食後は、いきなり長い階段を上る。視界が開けた場所は、朝鮮神宮があった場所の上で、遠くから見えるように、巨大な日章旗を取り付けた鉄塔があった場所だ。坂道を下っていくと安重根記念館があり見学。その後、植民地博物館に戻った。

韓屋村からFWスタート 案内役の李舜雨先生
統監府跡の石碑モニュメント 乃木神社の手水鉢

植民地歴史博物館のキーワードは人権・平和・未来

 1階ホールで建設基金寄贈式典が行われた。日本側の賛同者から寄せられた1034万円5千円の基金を「つなぐ会」代表の徐勝(ソ・スン)さんと庵迫由香さんから贈呈。
 韓国建設委員会の李離和(イ・イファ)委員長が「植民地歴史博物館のキーワードである人権・平和・未来をテーマに日韓市民が交流し、未来につなげていく空間にしたい」と挨拶。李煕子さんは、太平洋戦争被害者補償推進協議会としての歴史を振り返り、「活動の痕跡である資料が散逸して捨てられてしまう心配がなくなった」と胸中を語られた。

建設基金を寄贈 挨拶するヒジャさん

 式典の後は、いよいよ博物館の常設展示を見学。これまで韓国内や日本から収集してきた貴重な植民地支配下での品々が展示。治安維持法での検察資料なども展示されている。本来、日本人が他国で何をやったのかを日本国内で展示すべき品々である。2階フロア全てを常設展示に使い、以前の展示に比べて広くなった分、見やすく、また映像なども交えて小学生にもわかりやすく工夫されている。今後、テーマを定めて展示内容に変化を加えていくという。展示も最後に差し掛かったとき、野木さんが私に「ヒジャさんへの贈呈式をしてください」と言う。先日東京でこの式典に合わせて、GUNGUN裁判の横断幕をヒジャさんに寄贈したのだった。2003年の追加提訴の際に九州の岡添さんから贈られた黄色の「靖国合祀やめて!遺骨を返して!」という横断幕は、当時新聞の一面を飾った。その後も不当判決の際などで原告の背景にあったものだ。今後もGUNGUN裁判や「あんにょん・サヨナラ」の資料などを整理して寄贈したい。

展示物を見学 治安維持法裁判記録 横断幕を寄贈

 博物館お披露目の後は、推進協議会の会員の皆さんが準備してくださった夕食会。ビュッフェ形式でおいしい料理を食べながら交流を深めた。
 博物館は8月29日正式にオープンする。龍山・南山エリアへのFWとあわせて、積極的に活用していきたい。

遺族のみなさん 遺族のみなさん手作りの料理

 

植民地歴史博物館・民族問題研究所
  〒04310 SEOUL市龍山区jonpa-ro 47 da-gil 27
 電話(+82)2-969-0226


ノー!ハプサ第2次訴訟第16回口頭弁論の報告(山本)

 7月17日、ノー!ハプサ第2次訴訟第16回口頭弁論が東京地裁103号法廷で開かれました。当初、原告の意見陳述を予定していましたが、体調不良のため、来日は取りやめとなりました。残念ながら、韓国からの裁判参加はありませんでしたが、猛暑の中でいつも以上の幅広い方々に傍聴参加していただき、重要な裁判を乗り切ることができました。

裁判所が原告6名の本人尋問を認める!
専門家証人全員を採用させ、第1次訴訟不当判決を乗り越えよう!

 
  口頭弁論後の集会
 前回の裁判で確認されたとおり、原告側からは事前に人証申請を行いました。これに対しては、被告日本国と被告靖国神社から、「証人調べは不要」との意見書が出されていました。原告側は証人調べの意義を明らかにするために、準備書面を提出し、原告ら韓国人遺族の人格権侵害の成立について整理するとともに、事実認否を拒否する被告らに争点を18項目に絞り提示した上で、改めて認否を迫りました。
 これを受けて、裁判所は合議に入りました。しばらく出てこないため、裁判打ち切りも心配されましたが、結果的には、原告本人6人の尋問を採用すること、残りの専門家証人については留保としましたが、予定されている10月の期日は開けておいてくださいと裁判所は被告らに伝えました。また、原告らの事実認否の要求に対しては、裁判所からも被告に対して促し、調書にも残すことを明言しました。
 いよいよ、9月から原告本人尋問が始まります。同時に専門家証人の採用に向けて、韓国側とも協力し、準備を進めていきたいと思います。6月9日には韓国の民族問題研究所の新しい事務所ビル(1・2回は植民地歴史博物館)で弁護団と証人候補、原告本人尋問予定者の皆さんとで会議を持ち、勝利に向けた決意を固めました。
 本人尋問は被告からの反対尋問も予想されます。これまで以上に多くの傍聴者で原告を支えていきたいと思います。

第17回口頭弁論(第1回原告本人尋問)
  2018年9月12日(水) 午前10時〜、午後1時15分〜 東京地裁103号法廷
第18回口頭弁論(第2回原告本人尋問)
  2018年9月18日(火) 午前10時〜、午後1時15分〜 東京地裁103号法廷


長崎で「明治日本の産業革命遺産」集会を開催(中田)

 6月23日、「明治日本の産業革命遺産」が「集中」する長崎市内でこの問題を広く知ってもらおうと強制動員真相究明ネットワークの主催で『「明治日本の産業革命遺産」と強制労働』と題して翌日から中東のバーレーンで予定されていたユネスコ第42回世界遺産委員会へのアピールも兼ねた集会が開催されました。
 
  長崎集会
 2つの講演と4つの報告を受けました。まず『「私たち」の歴史と明治日本の産業革命遺産 』と題して東京大学の外村大さんから「軍艦島を故郷として大切に思う元島民の立場もあれば、強制連行被害者当事者が持つ苦難の歴史もある。それぞれの立場からお互いを認め合うことから相互理解が始まる。そのように他者との関係を良好なものに変えていく契機として歴史を考えなければならない。」と明治産業革命遺産の問題を「歴史戦争」ではなく相互理解の第一歩としなければならないとの提起がされました。続く強制動員真相究明ネットワークの竹内康人さんは『明治日本の産業革命遺産・強制労働 10の視点』と題して明治産業革命遺産の問題点と様々な資料を読み解いて「明治日本の産業革命遺産」に関係する「強制動員」の全体像を示しました。
 その後各「遺産」の存する地域の取組みとして「戦時下長崎における中国人・POW強制労働」平野伸人さん(長崎の中国人強制連行裁判を支援する会) 「長崎の朝鮮人強制労働」新海智弘さん(純心女子高等学校非常勤講師)「三井三池炭鉱と強制労働」城野俊行さん(前大牟田地区高等学校人権・同和教育研究協議会会長)「八幡製鉄所と強制労働 『「世界文化遺産として隠さず歴史の記載をしよう』」兼崎暉さん(八幡製鉄所の元徴用工問題を追及する会)の報告を受けました。
 集会感想にも「日本の負の歴史を学ぶことができました。語り継ぐことが大切だと思います。」「初めて知ることがたくさんあっておどろきと感動でいっぱいです。」「この種の講演には初めて参加しましたがとても参考になりました。」などこれまで地元でもあまり知られていなかったこの問題を100名余りの参加者を得て開催することで理解の裾野が少し広がったのではないかと感じることの出来た集会でした。

読書案内
 
   

『母の憶い、大待宵草
      よき人々との出会い』

                                         
             古川佳子 著  白澤社  2600円+税

 「これに増す 悲しき事の何かあらん 亡き子二人を 返せこの手に」 古川佳子さんのお母さんが戦死した息子を思い詠んだ歌である。「けいすけー」「ひろしー」と川原の花に向かって息子の名を呼び続けた。その花がタイトルの大待宵草(月見草)だ。靖国を相手取った縁でGUNGUN裁判当初からお世話になっている古川佳子さん。李煕子さんたち韓国原告の思いを大切にし、本に登場する詩人三木原ちか子さんとも出会わせていただいた。本の中に出てくる、人生の中での「偶然のような必然の出会い」は、まさに反戦平和を紡ぐ生き方の連鎖だ。次世代への連鎖のためにこの本をお薦めしたい。(古川ま)

GUNGUNインフォメーション

8月10日(金) 靖国連続学習会 第1回 18:30 エル・おおさか708号室
8月11日(土) 平和の灯を!ヤスクニの闇へ 2018キャンドル行動 13時〜
           在日韓国YMCAスペースY  (水道橋駅徒歩7分)

<日本軍「慰安婦」メモリアルデー「金学順さんから始まった # Me Too」>
8月12日 東京 14:00〜 文京区民センター2A
8月12日 関西 14:00〜 ドーンセンター パフォーマンススペース
8月14日 東京 13:00〜 wam

9月12日(水) ノー!ハプサ第2次訴訟第17回口頭弁論(第1回原告本人尋問)
           10:00〜、13:15〜 東京地裁法廷103号法廷
9月18日(火)  〃  第18回口頭弁論(第2回原告本人尋問)
           10:00〜、13:15〜 東京地裁法廷103号法廷
9月27日(木) 大阪朝鮮学校補助金裁判高裁判決 15:00

<植民地歴史博物館開館記念ツアー>
【第1回】10月6日〜8日 【第2回】11月3日〜5日 【第3回】12月1日〜3日
      内容:植民地歴史博物館見学、南山フィールドワーク、白凡金九記念館、朴鐘哲記念館など

10月10日(水 )東京総行動(新日鐵住金本社行動)14:00〜14:20 
10月30日(火) 東京朝鮮学校高校無償化裁判高裁判決 16:00(集合15:00)