2008年12月26日〜28日

ポッサムキムチ・ツアーin江華島


 12月末に念願のポッサムキムチを作りに、ソウルへ行って来ました。26日の12時ごろインチョン空港に到着。まずは、バスで清涼里のホテルを目指します。この時点で身を切るような寒さにあらためて韓国の厳しい冬を実感。

   
 
 

昌徳宮で

 ホテルに荷物を置いて夕方、民族問題研究所での忘年会に合流しました。ビルの5階の研究所のスタッフは既にフロアーに座って談笑を始めておられました。若い人たちが多いのにびっくり。私たちのためにテーブルと椅子が用意されていて恐縮しましたが、たくさんのごちそうを目の前に、さっそく舌鼓。おいしかったのは、蒸し餅です。黒や緑の数種類の豆類が見た目にも鮮やかで、いくつもパクついてしまったほど。聞くと民問研のミン・ヨンスさんが、お母さんのお友だちの店で買ってきたということ。次ソウルに行った時は是非その店で買いたいと思います。

 イ・ヒジャさんが所長さんを私たちに紹介して下さいましたが、アンニョンハセヨとカムサハムニダしか言えませんでした。そこで「正しい記憶のための闘争」という日本語でかかれた小冊子をいただきました。マンガで民問研の設立された歴史が簡潔にまとめられていました。これまで映画「あんにょん・サヨナラ」の製作母体となっていること、植民地時代の真相究明の法制化にむけた強力な推進母体となっている団体だというザックリしたことしか知りませんでしたが、その設立の経緯や、運動の目指しているものなどがわかるもので、とっても得した気分になりました。途中から、福留さんや広島でヒジャさんを招いてキムチ講習会を行っているグループの女性二人も参加して交流。おしゃべりとおもちでお腹いっぱいにして、ホテルに戻りました。

   
 

キムチ準備

 
 

もうすぐ完成

 
 

袋詰め

 

 翌日は、午前中ミンさんと、民問研のスタッフになって1年目のソン・ギョンソプ君の案内で昌徳宮や仁寺洞、北村韓屋村を見て回りました。午後はいよいよヒジャさん宅へ。事務所の近くのバス停から30〜40分くらい乗って下車。坂道を歩いてすぐのところにありました。

 台所ではすでに、イム・ソウンさんとパク・ウォンベさんが下ごしらえの真っ最中。とっても大変な白菜の塩漬けと水洗いや、大根、わけぎ、せり、たまねぎ、しょうが等の野菜類の千切りなどは終わって、私たちは栗、しいたけ、生海老を切るお手伝いをしました。ヤンニョンにはその他に牡蠣、手長ダコ、梨、柿、なつめ、、イワタケ、胡麻など果物、海産物が盛りだくさん。唐辛子の粉と混ぜ合わせているだけで、よだれが出そうで圧倒されました。これぞ王様のキムチといわれる所以。お椀に白菜を3,4枚しいて、たっぷりとヤンニョンを入れ、丸くくるんでできあがり。30個くらいできたでしょうか。素晴らしいお土産のできあがりにみんな大感激。

 イムソウンさんは、この後すぐお家に帰られました。最近はあまり体調がすぐれないのに無理されたのではないかと心配です。パクさんは、深夜まで私たちに付き合ってくださいました。お三方がそろいの赤いエプロンを着けておられるので尋ねると、ヒジャさんたち6人で一人暮らしの老人のためのキムチ作りのボランティアとして参加した時のエプロンだということでした。そして民問研でも漬けたし、自分の家の分も漬けたので、今回が4回目ですと言われてびっくり。本当に有難うございました。晩御飯は、参鶏湯が一人、1羽ずつ用意してあり、これにまた一同興奮気味。絶対食べきれないと思っていたのですが、不思議にお腹に入ってしまうのです。胃にやさしい漢方の食材のなせるわざなんでしょう。朝鮮人参やなつめの効能を実感です。

 翌朝、食卓には参鶏湯でとったスープで作ったおかゆが用意されました。ヒジャさんの心配りでした。身も心も温かくなって、あとは江華島での観光に出かけたのでした。
今回のツアーに関してコーディネイターとして活躍してくれた野木さんには、本当にお世話になりました。また、いつも私たちのツアーのたびに車を用意して案内してくださった推進協の皆さん、ありがとうございました。素敵な出会いに感謝して、28日帰路につきました。

(注)イム・ソウンさんは、帰還する浮島丸に乗船した父親イム・マンボクさんの遺児で、グングン裁判の原告として法廷にも立たれました。2004年には舞鶴にもご一緒しました。パク・ウォンベさんは、父親が靖国に合祀されているが一日も早くその取り消しを望んで活動をしておられる方です。ノーハプサの原告はお母さんですが、体調が悪いので自分がかわって活動をしていると言われていました。

 

参加者の感想

 
 

杉田さん

 10月に一泊二日で歌舞団でソウルに行った際、ホテルでイ・ヒジャさんとのお話から思わず実現した今回の韓国行き。圧巻はご自宅でのポッサムキムチ作り。お手伝いとは名ばかり、日本からのメンバーは、皆さんの好意と、オンドルの温かさに包まれたっぷり甘やかされ、幸せでした。夜、心づくしの交流会。ご本人の前で、来られなかった本田さんの分も「アジア・オペレッタ」を歌うチャンスがあったのに、逃してしまいました。歌舞団員としては不覚だったと反省しています。「私達は、人を捨てる世界にいるんだよ。だからパウロも」今年の歌舞団公演での言葉が、今もあのハンガン、イムジン河を囲む鉄条網の情景と共に迫ってきます。こんな世の中だからこそ、出会った方々の笑顔を道しるべに一歩ずつでも進んでいきたいと思いをあらたにしました。(月桃の花歌舞団・杉田)


 

ポッサム・インタビュー
ポッサムキムチ作りの合間をぬって、原告の皆さんに今の思いをお聞きしました。(中田)

 
   

朴元培(パク・ウォンベ)さん

 私の父の名は朴憲太(創氏名は中元憲太)。他のことはともかく、靖国に合祀されているお父さんの合祀を取り下げてもらいたい。最近は原告である母も調子が良くない。もしこのまま亡くなってしまったら、恨として残ってしまうのではないかと不安でたまらない。母が生きている間に何とかしたい。本当は、法廷に母が参加できればいいのだが、体が悪いので裁判に行くこともできない。一日でも早く合祀取り下げをきちっとしたい。私の願いはそれだけ。
 

 
   

林西伝(イム・ソウン)さん

 裁判がうまくいくことだけを願っている。解決できる方向に進んでいって欲しい。私たちに良い知らせが来ることを期待している。私も、もう68歳。日々身体が弱ってきて、一日でも早く解決をして欲しい。今までうまくいったことがないので、一つだけでもと思う一方、期待できないとも思う。ずっとお父さんの顔も知らずに育った。子どもとして靖国から名前をはずすことだけは何としても成し遂げてあげたい。
 

 
   

李熙子(イ・ヒジャ)さん

 これまで、私がやって来れたのは、やり遂げなければならない目標があったから。そして日本で支持してくれる人がいたから活動ができた。日本の皆さんに支えられてきたことに一番感謝している。これまでも長い間辛い時期があった。しかし今思うのは、長い間闘い続けることができたこと自体が一つの結果だと思う。つかみ取れる結果としては得られなかったが、活動できたことが成果だった。本来、政府がやるべきことを民間の力のない私たちができたのが何よりの成果だと考えている。政府が何もしないことを恨みに思っていたらダメだと気付いて、自分たちでやろうとしたのがよかった。これまでよかったと思うことは、たくさんの人に出会えたこと。出会えたことで分かち合う場が出来た。人間関係を発展させることが出来て、私にとって数多くの貴重な経験ができたことが最もよかった。

 長い間、活動してきて、こうしていなかったら今どうなっていたのかと時々思うことがある。私自身のやり場のない怒りがどうなっていたか、孤独であったのではないかと思う。私の中の思いを吐き出せる場があったのが力となった。どういう結果になるにしろ、サポートしてくれる人がいる限りこれからも闘って行きたい。しかし私は、活動家として取り組んでいるのではない。父親の問題として、子どもとして、果たさなければならないこととして今後も闘い続ける。

 日本の人との交流を通じて、非常に勇気付けられてきたが、裁判の話となると大変心が重苦しくなる。交流を通じて出て来る気持ちと違って、裁判や法廷のことを思うと重い気持ちになってしまう。しかし、気持ちは重いが、裁判を続けているのは、どのような判断が下されるにしろ、記録として残せるから頑張っている。たとえ結果がよくなくても次の世代に伝えることが大切なこと。記録として絶対に残さなければならない。イムソウンさんは親の顔も知らずに育ったと言ったが、「子供として最善を尽くした」と言える為にも記録として残さなければならないと思う。次の世代の子供に伝えるのが大切なこと。

 一生懸命やってきて振り返ってみたらいつの間にか20年経っていた。死ぬまで日本と闘うつもりだ。闘っているうちに死ぬだろう、それが私の運命だと思っている。これまで20年闘って来れたのは、自分の家族の問題だったからこそ。日本の支援の皆さんと最後までともに闘っていくことを誓って新年のメッセージとします。