2004年12月6日

林西云さんとともに、お父さんの眠る海・舞鶴へ


碑の前でご供養する林西云さん

浮島丸殉難者の碑

 東京での口頭弁論に先だつ12月5日、6日にかけて、私たちは林西云さんを舞鶴の下佐波賀にある「浮島丸殉難者追悼の碑」までお連れしました。浮島丸とともに舞鶴湾に沈んだ林西云さんのお父さん、林萬福さんを供養するためです。林西云さんが韓国から持って来た梨、なつめ、ろうそく、線香、花、そして酒、するめを碑の前に並べて追悼しました。海に花を投げ入れ、浮島丸が沈んだあたりを眺めてしばらくすると林西云さんは「アボジー、アボジー、娘が来ましたよー」と呼びかけます。そして碑まで戻り、ろうそくを紙コップの上にたて、プラスチックの箱に乗せて急ごしらえの灯篭を作り、海に浮かべました。

 

アボジー!と呼びかける林西云さん

 

「船が沈んだことは知ってはいたが、やっと父の死んだ現場に来ることができました。ずいぶん冷たかったでしょう」「亡くなったおばあさんから生前よく、『魚は食べてはいけない。父を食べているような気がするから』と聞かされていました」「父の遺骨だと言って戻されたけど、本当かどうかわからない。地元の人が懸命に救助してくれたことはうれしいが、日本政府がもっと早く動いてくれていたら…」「息子の死を受け入れることもできず、おばあさんは51の若さで亡くなってしまいました」

 父を失い、母の再婚の後、孤児同然のくらしを余儀なくされた林西云さんは、父の無念を晴らすのは自分の務めとして裁判の原告となってきました。しかし、浮島丸裁判の最高裁棄却(11月)を受け、この先どういったことをすればいいのかと心重く来日されたそうです。でもこの日舞鶴へ行ったことで、浮島丸事件の真相究明や遺骨返還、そして靖国合祀に対する理不尽さへの怒りが蘇り、8日の裁判では思うことを陳述できたようです。少しは林西云さんのためになれて、同行してよかったと思っています。 (大幸)


 
 

後の島の近くで浮島丸は沈んだ

浮島丸事件とは・・・

 戦争が終わって9日目の1945年8月24日午後5時20分頃、京都府舞鶴市佐波賀沖で、海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン)が突如爆発・沈没し、乗員乗客549人(政府発表)が死亡した。青森県地方で働いていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗っていたとされるが、6000人という証言もある。8月22日22時頃青森県大湊港を出港、釜山を目指し航行中、進路を突如変更、舞鶴に寄港。入港直後に爆発。政府は触雷が原因としているが、当時の状況から自爆の可能性もある。当時日本は敗色が濃く、本土決戦に備えて青森県でも下北半島などに強力な防御線を築くための要塞や、鉄道の建設、弾薬など資材の備蓄のための工事が進められた。日本の労働力不足を補うため、朝鮮半島から多数の労働者が集められ、青森県にも 21000人といわれる多数の朝鮮人労働者が投入された。終戦直後「朝鮮人が暴動を起こす」というデマにのった海軍が朝鮮人の帰国を急がせるため、浮島丸が配船された。