弁護団訪韓と原告集会の報告

 5月26日から29日にかけて、「在韓軍人軍属裁判」(6月29日提訴)の弁護団訪韓行動を行いました。
 訪韓の目的は、原告集会を通じて裁判の意義を共有し、原告・弁護団・支援する会の連帯を深めること。日本側からは、李宇海・大口昭彦・鶴見俊男・古川美・殷勇基の5名全員の弁護士が参加。支援する会からも関東・関西から7名が参加しました。
 26日、仁川空港をあとにして向かったのは、ソウルから80キロ離れた江原道の春川(チュンチョン)。金景錫(キム・ギョンソク)さんが会長を務める「太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会」の本部がある。「明日は何人参加するかわからないが、原告はほとんどが素朴な農民。その切実な声を聞いてあげてください。」と金景錫さん。
 翌朝、金景錫さんが建立し、月二度のお参りを欠かさない納骨堂に参拝した。祀られている513体の記録を見ると、九州・北海道の炭鉱に強制連行され亡くなった人が多いことがわかる。無言の遺骨から恨の叫びが聞こえてくるようだ。
 午後は道庁近くの会場で原告集会。道庁へのメイン道路には、教科書問題に抗議する遺族会の横断幕が頭上に渡してある。集会に参加した原告は約80名。遠くは全羅南道から泊りがけの参加者も。当初の会議室ではあふれ、急遽ステージつきのホールに会場を移した。会長の挨拶の後、大口弁護士が弁護団を代表して挨拶に立つ。「今までの戦後補償裁判の総括的・究極的な裁判になる」と訴訟の意義と概略を説明。次いで支援する会からのアピール。アジア沖縄平和まつりで参加者に呼びかけ作ったタペストリーを広げて、韓国語で「原告の皆さんは、歴史の歪曲を許さない生き証人。韓日市民の共同行動でがんばりましょう」と呼びかけると、会場からは大きな拍手が起こった。
 その後、原告たちが次々とマイクを握る。「佐世保から船に乗って南洋・パラオまで行って働いたのに何の補償もない」「軍属として働き戦犯に問われた。歴史を歪曲しても私たちが証人だ」。会場が日本に対する怒りの声で騒然とした時、原告の一人、蔡錫奉(チェ・ソッポン)さんが「日本というと近くて遠いと思っていた。今日この場に皆のために弁護団と支援の方が来てくれた、そんな人がいるのを知り嬉しい。私たちのためだけでなく、日本のためにもがんばってください」と語ると会場が拍手に包まれた。集会終了後、原告たちが次から次へと握手を求める。固く握るどの手も金景錫さんが言うようにゴツゴツした手だ。このような実直な人々を連行して働かせ、殺し、戦後処理を放置してきたのかと思うと、何とも言いようのない怒りと悲しみが込み上げた。
 その日のうちにソウルに移動し、翌28日は朝から太平洋戦争被害者補償推進協議会の原告集会だ。東大門の近くにある会場には、約130名の原告が参加した。ここでも遠くは済州島からの参加者もいる。副代表の李煕子さんの挨拶、大口弁護士の挨拶のあと、支援する会からアピールの際に歌「アリラン」「ひとひらの花」(韓国語)を歌う。歌い終えると拍手の渦。歌は国境を越えると実感する。その後原告たちの思いが次々と語られた。
 ある女性は「父は徴用されたあと生死もわからないまま。母も亡くなり墓参りをするたびに涙が出る。補償も大切だが、生死確認と遺骨返還をまずやってほしい」と涙ながらに訴えた。金銀植事務局長から「戦死記録や供託や遺骨に関する記録を日本政府から韓国政府に引き渡してほしいが、裁判でそういう請求はできないか。提訴希望者がどんどん増えている。ドイツでも1万人が提訴した例がある」と意見。大口弁護士から「1965年の日韓協定の壁を打ち破らなければならない。ノ・テウ政権の際に不十分ながらも資料が韓国政府に手渡されている。遺骨にしても資料にしても要求を両政府にぶつけることが必要。日本人は日本政府と闘うが、韓国でも韓国政府に対し明らかにせよと声をあげてほしい」と、この裁判を契機に日韓市民の共同行動を深める必要性が強調された。集会終了後、金銀植事務局長は「2週間前に開いた原告への説明会の参加は60名。今日はその倍。いよいよ裁判が始まるという気構えができた集会だった」と感想を語った。
 2箇所での原告集会を通じて、固く握手を交わしたあの原告たちのゴツゴツした、でも温かい手の感触が忘れられません。「生死確認を」「遺骨を返して」。戦後57年たっても果たせぬ切実な要求を放置しては絶対になりません。原告と弁護団、そして支援する会とががっちり肩を組んで、裁判を闘っていく決意が深まったと思います。