BC級戦犯問題とは?

 戦犯(戦争犯罪人)とは、A級とBC級の二種に大別される。A級戦犯とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)において「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪」の3つを根拠に起訴されて有罪判決を受けた者で、東条英機ら25名がこれにあたる。BC級戦犯とは、特定の地域で「通例の戦争犯罪」を犯した者として、連合国による各地7カ国、49の法廷で実施された軍事裁判で有罪判決を受けた者である。しかし、通訳や弁護人の不備、証拠や審理の不十分さなどに多くの問題が残された。この裁判で有罪とされた韓国朝鮮人軍属は148名。うち23名が死刑を執行された。何故、こんなにも多くの韓国・朝鮮人軍属が戦犯として裁かれたのか。この疑問は、戦犯として裁かれた「罪」の内訳をみると少しは解けてくる。
 
 戦犯148名のうち、129名が連合国俘虜(捕虜)の監視員であった。捕虜ないし抑留者の虐待がその「罪」である。日本が受諾した「ポツダム宣言」には、日本の戦争犯罪の中でも捕虜虐待をとりわけ重視していることが明記されているし、実際にも厳しく裁いている。命令に従っていたかどうかに関わりなく、個人の実行責任をも厳しく裁いた。連合国の捕虜が収容されていた収容所には、軍属として多くの韓国・朝鮮人が徴用されていたのである。とりわけ泰緬鉄道に関係した裁判は、BC級裁判の中でも規模が大きく120名が起訴されている。(そのうち韓国・朝鮮人軍属の起訴は35名。うち33名が有罪、9名が死罪)

 泰緬鉄道とは、インド洋の制海権を失った日本軍が、ビルマ方面軍20万人の海上輸送路に代わる手段として建設したものである。準備不足のままスタートし、医薬品も食料もない中で苛酷な労働に従事させられた連合国捕虜1万3000人が死に追いやられた。捕虜の恨みは、天皇や東条英機にではなく、目の前の命令実行者である何の権限も持たない軍属傭人の韓国・朝鮮人に向けられたのである。

 しかし、日本の軍隊の中で最末端の韓国・朝鮮人軍属に、上官の命令に背く事など果たしてできたか?捕虜のために、薬や食料を調達してくることができたか? 監視員の彼らも、理不尽な日本の仕打ちに耐えていた人たちなのである。

 裁判当時は、日本人として戦犯の「罪」を科せられ、釈放後は、「外国人」として何の補償を受けることもできずに、非常に苦しい生活を強いられたのである。わずか1500円の支給で、韓国に帰ることもできない。日本人は雇ってはくれない。生きるために必死に働いても、年金を受けることもできない。厚生年金をかけるようなところで働くことができなかった。

 何の補償もしない日本政府に、1991年謝罪と補償を求めて提訴した。植民地支配と侵略戦争の被害者である韓国・朝鮮人が、その被害を告発する立場にあって当然なのに、戦後日本の戦争責任を問われなければならなかった「不条理」がこの裁判で追求された。残念なことに、96年地裁判決、98年高裁判決、99年最高裁判決と三度の棄却判決がなされた。しかし、高裁判決は「ほぼ同様の境遇にあった日本人、さらには台湾住民と比較しても著しい不利益を受けていることは否定できない。」「国政関与者においてはこの問題の早期解決を図るために適切な立法措置を講じることが期待される。」と立法化を付言し、最高裁でも「深刻かつ甚大な犠牲ないし損害を被った」ことを認定し、立法化にも言及しているのである。今、立法化こそが問われている。

 現在、GUNGUN裁判の呼びかけ人の一人である内海愛子さんや今村嗣夫弁護士をはじめとする、「韓国朝鮮人『BC級戦犯者』の補償立法をすすめる会」により「旧植民地出身者である『BC級戦犯者』の遺族等に対する措置に対する法律案(今村試案T)が2001年12月に発表され、立法化へ準備がすすめられている。

GUNGUN原告の陳述書

父がBC級戦犯として東京・巣鴨刑務所に10年も収監。「父たちを戦犯にしたのは一体誰なのか?」

原告 ナ・チョルウン(羅鐵雄)さん

 
   

 私が三歳の時(1943年)に父が徴用されました。

 当時、父・母・兄・兄・私の5人家族で、父は慶尚北道のチルゴク・ウェガン変電所に勤務していて、生活は苦しかったそうです。

 徴用され、慶州から釜山へ行き、インドネシア、スマトラ、ジャワへ連れて行かれ、そこで英国人捕虜収容所で勤務しました。

 終戦と同時に収容所の中と外とが逆転し、父は収容所に入れられました。BC級戦犯として10年の刑を受け、東京巣鴨刑務所で1955年まで10年もの間、収監されました。

 刑期満了で釈放されましたが、病弱になり、1982年韓国の慶北委谷郡で亡くなりました。

 一方、徴用後残された家族の生活は、言葉では言い表せないほど悲惨なものでした。

 父が韓国を出発する際には、月給の金額が決められていたのに、実際にはもらうことなどとんでもなく、死ぬほどの苦労をして帰ってきました。

 強制的に徴用された挙句、終戦後も10年間、人生の大切な時期に刑務所に入れられた苦痛に対する補償と、未払い給与の返還を要求します。

7年間の未払い給与と戦時手当て等を支払ってほしい。

原告 ヤン・ソクドゥ(梁錫斗)さん

 私は1943年、日本の強制連行で釜山を出発し、南洋群島のジャワ島へ上陸(航海期間23日)しました。そこで1年半くらい捕虜収容所の監視員として勤務しました。その後。転出命令でタイに行き、1年半くらいで解放を迎えました。タイで連合軍の捕虜になり、1年半刑務所に収容されてから、シンガポールに移監されて1年間収容され、その後佐世保港経由で48年2月頃に帰国しました。私はBC級戦犯にさせられてしまいました。

 日本政府は、7年間の未払い給与と戦時手当て等を支払うべきです。